足利公方邸舊蹟(足利公方邸旧蹟)

畠山重忠邸址
(撮影日:‎2022年5月3日)

金沢街道から小道を入ってすぐにあります。住宅街の中にあり、普通の家の敷地にあるので知らないとちょっと驚きます。
鎌倉時代から室町時代の『享徳の乱』の勃発前まで住んでいたと思うと足利氏を勉強している管理人としては凄く感慨深い場所です。

碑文と意味

頼朝開府ノ初足利義兼居ヲ此ノ地ニトシテ以来二百数十年間子孫相嗣イデ此ニ住ス尊氏覇ヲ握リテ京都ニ遷ルノ後其ノ子義詮二代将軍トナリテ京都ノ邸ヲ嗣ギ義詮ノ弟基氏関東管領トナリテ兵馬ノ権ヲ此ノ邸ニ執ル而シテ之ヲ子孫ニ伝フ子孫京都ニ比擬シテ公方ト僭称ス享徳四年公方成氏執事上杉憲忠トノ不和ノ事ヨリ下総古河ニ遷ルニ及ビテ遂ニ永ク廃虚トナル

管理人訳
源頼朝が幕府を開いた時、頼朝の一門で北条政子の妹(時子)を正室し、鎌倉幕府開幕に貢献した足利義康がこの地に邸宅を構えました。以来約200年間、子孫がこの地に居住しました。
室町幕府を開いた足利尊氏もここに居住し幕府開幕後に京都に移ったあと、義詮が2代目将軍となって、京都の屋敷を継ぎ、弟の基氏が関東を統治した鎌倉府の首長となり、この邸宅で政務を摂り関東を収めました。
こうして基氏の子孫に邸宅は引き継がれました。また、子孫は京都にならって、『鎌倉公方』と名乗るようになります。
享徳3年(1454年)に第5代鎌倉公方足利成氏は関東管領上杉憲忠を謀殺し、『享徳の乱』が勃発の引き金になりました。翌年の享徳4年(1455年)に『分倍河原の戦い』・『小栗城の戦い』等を成氏が遠征中で不在となっていた鎌倉を上杉氏援軍の今川範忠勢が制圧した為、戻れなくなり、下総の古河(現在の茨城県古河市)を新たな本拠としたため、足利公方邸は廃墟となりました。

スポット詳細

名称 足利公方邸舊蹟(あしかがくぼうていきゅうせき)
住所 神奈川県鎌倉市浄明寺4-2-25
アクセス 鎌倉駅から徒歩約40分
WEB
時間 自由
休み なし
料金 無料 *外観見学のみ
所要時間 5~10分
備考
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